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日中報道


by koubuni
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鬼がいなくなる日(「中央公論」2003年9月号より)

 2002年底,偶然看到一张招贴广告,便应征了《中央公论〉学生记者……

 一九四五年の真夏のある日。場所は中国福建省福州市の林浦という村。幼い少女が家で兄といっしょに遊んでいると、突然、外で「日本人が来た!」と叫ぶ声がした。ふたりは慌てて観音菩薩の石像が置いてある大きなテーブルのうしろに身を隠した。そこへ重い足取りが入ってくる。少女がテーブルの陰からそっと首をのばすと、ブーツを履いたふたりの日本軍兵士の姿があった。かれらは部屋を見回したあと、観音菩薩像の前で両手を合わせ深々と頭を下げた。少女はその敬虔な様子を目にして、初めて人間の心の複雑さを思い知らされた。そして、後年、母となってからは娘の私に何度もこの話を語って聞かせたものだ。
 日中戦争、中国側では抗日戦争と呼ばれる戦争のあいだ、中国人にとって侵略者の日本人はまさに「日本鬼子」だった。その鬼であるはずのふたりの兵士は、戦争が終わる直前にどんな心の動きがあったのだろう。母の口から聞いた光景を想像しながら、私もその問いを噛みしめずにはいられない。
 私が幼い時分に観た抗日戦争の映画では、日本人は残虐な「鬼」に描かれていて怖かった。それがやがて、一九八〇年代なかごろから日本の音楽やアニメなどの大衆文化が流入してくるにつれて、私もその魅力にすっかりはまっていった。しばらく新聞記者の仕事を経験したあと、三年前に来日して、大学院で国際ジャーナリズム論の勉強を始めた。夢は中国語と日本語の両方を使って取材をし記事が書けるようになること。中国と日本、中国人と日本人のあいだに価値のある架け橋を探していきたいと考えている。
 私の仕事の分野はおもに高齢者や社会福祉の問題だったので、お年寄りと触れあう機会が多かった。私の目から見ると、加齢とは歴史・知恵・経験を積み重ねていくことにほかならない。だから、私はいま日本でもお年寄りたちのもとを訪ねては教えを請う。そのひとつひとつの言葉が心に深く響く。最近、秦野市日中友好協会理事の橋村武司さんから学んだのは、私が知らなかった過去の戦争の一側面だった。

 黄色い大地に刻まれた青春

 初対面のとき、橋村さんが被っていた帽子には「清華大学」の徽章が嵌め込まれていた。一九九五年から九七年までの二年間、中国でもっとも有名な精華大学で、科学技術者フォーラムのメンバーとして精密機械の技術支援にあたっていたそうだ。
 その橋村さんは一九四三年、十歳のときに母と妹とともに満州(現・中国東北部)のハルビンへ渡ってきた。四五年、日本の敗戦後、八千人とも一万人ともいわれる日本人が「留用」された。かれらの多くは鉄道、医療、空軍などに関する専門技術者で、以後八年以上にわたり中国建国の協力者として働くことになる。橋村少年もまた、各地を転々としたのち、一九五〇年、鉄道施設のための八百人に交じって甘粛省東南部の天水という町に送り込まれ困難な日々を過ごした。
 現地の中国人は突如出現した「技術工人」の集団によって初めて日本人と出会った。「鬼」と信じていた子どもたちは、橋村少年に向かって「帽子を取って角を見せて」とせがんだりしたという。一方で、天水鉄路職工子弟中学校に入った橋村少年は、歴史と政治の授業を通じて戦争中の日本軍の悪行を知らされた。また、中国人の級友から、その父親が満州で日本軍から七発の弾丸を浴びて絶命したことを聞かされて、深く胸を痛めたこともあった。「悲しみも喜びも味わった中国は私の人生道場だった」と、橋村さんは少年時代を振り返って述懐する。
 天水と蘭州を結ぶ天蘭線建設のために「留用」された日本人鉄道技術者たちは、二年半を天水で過ごしたのちに帰国する。二十歳になっていた橋村さんもようやく再び日本の地を踏んだ。その後、前記したとおり精密機械の技術者となって二十回ほど日本と中国のあいだを行き来しながら、これまで天水へも三回立ち寄り、かつての恩師や級友と往時を語りあったという。
 一九九九年、橋村さんを始めとする「天水会」の寄付金によって、天水に千本の桜の苗が植えられた。黄色い大地に並び立つ桜の木々は、そこに青春を刻んだかれら日本人留用者たちの温かい記憶の延長なのである。私は想像の翼を広げないではいられない。中国西部の天水。はるかシルクロードへとつながる神秘の土地。黄砂満天の原野に夕霞の光が照らしだすひと筋の鉄道軌道を、日本人と中国人がいっしょに力を合わせて施設している光景を。

 中国語、日本語どちらも心の橋

 東海大学の湘南キャンパスから歩いて五分ほどの場所に秦野市大根公民館がある。そこで毎週日曜日に開催される中国語同好会で、橋村さんは現在、十数人のお年寄りとともに中国語を勉強している。私は何度も足を運んで、若い中国人女性の講師を前に、かれらが真剣に中国語に取り組む姿を見た。あるときは中国語で自己紹介の練習をしていた。たどたどしいにもかかわらず、日本人の口から中国語による挨拶を聞いて私は感銘を受けた。
 かれらは中国の悠久の歴史と文化に愛着を抱き、おりにふれて万里長城、四川省の九寨溝、安徽省の黄山、雲南省の大理、広西省の桂林……と各地の名所旧跡を旅しては、現地の人々との交流を楽しんでいる。「万里長城の階段で支えてもらって中国人の親切さを感じた」と微笑むおばあさん、「野生のパンダの写真を撮った」と自慢するおじいさんなど、教室ではにぎやかな体験談が披露される。
 私は自分の故郷、福建省のお年寄りたちを思い出した。実家のすぐ近くに福建老年大学がある。退職した年配の人々が集まって勉強している場所だ。三年前からこの大学では日本語専攻を設け、毎年二十数人ほどのお年寄りが入学して本格的に日本語と日本文化を勉強するようになった。もとより、中国の高齢者たちが日本について学ぶのには心理的な壁がある。かれらの脳裏には、半世紀以上前の抗日戦争の悲惨さの記憶が深く刻み込まれているのだから。しかし、その分厚い壁を乗り越えて、かれらはいま日本と日本人を再認識する勇気をもち始めている。
 先日、そこの年配の友人に電話をかけて、日本でもお年寄りが懸命に中国語を学んでいることを伝えると、相手は少々驚いた様子で「会いたいね。日本語と中国語で交流してみようじゃないか」と応じた。中国と日本のふつうのお年寄りたちが歴史的・心理的な隔たりを超えて、たがいの国語で語らいあう日も遠くないだろう。私はその場面にぜひ立ち会ってみたいといまから胸を躍らせている。

 二度と「鬼」が現れないように

 正直言って、私はここには来たくなかった。靖国神社。雨に打たれながら見上げた巨大な鳥居のまわりでは鳩が飛び交っている。歴史の薄暗い街角に立ったような感じがした。
 境内の一郭にある「遊就館」には、隠しようもない戦争のさまざまな証が展示されている。戦闘機、機銃、山砲、鉄軍帽……など、多くのものにはすでに赤錆が生じていたが、すさまじい硝煙弾雨のなかをくぐり抜けてきたのであろうこれらを目の当たりにして、私は一瞬ぞっとした。戦争とは何だろうか。なぜ多くの無辜の民の命を奪う戦争が文明史とともに存在してきたのだろうか。そして、いまも存在しているのだろうか。最も衝撃的だ
ったのは、この戦争博物館の壁いっぱいに貼り出されていた戦没者たちの写真だ。若々しい青年たちのだれもが無垢な笑顔をこぼしている。
 せめて中国と日本のあいだではもう過去の戦争が繰り返されないように、二度と「鬼」が現れないようにと祈らずにはいられない。そのために少しでも役に立つことを私は記者として書いていきたいと願う。私は待っている。地球村のどこにも「鬼」がいなくなる日を、人間同士の絆がどこまでも深まっていく時代を。
 私は飛行機が成田空港に到着する直前、窓から海岸線を見下ろすたびにその美しさに興奮する。建て前が好きな日本人、辛抱強い日本人、いつも時間に追われている日本人、狭い空間のなかで圧迫されている日本人、ときに子どものような笑顔を見せる日本人……。私がこの目で見てきた日本人は、母が見たものよりもずいぶん多彩だ。
 いつか私が自分の子どもに日本のことを伝えるとき、こうやって物語を始めたい。中国と隣の日本とのあいだにはかつて悲しい戦争があったけれど、それよりもずっと多い愛と平和のストーリーがあるのだ、と。


●取材
杉本奈津子(東海大学文学部三年)
●写真撮影
石川龍(東海大学教養学部四年)
●協力
東海大学
by koubuni | 2006-02-26 17:39