日中報道


by koubuni
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イギリス人を取材した

最近よくIT業界の人を取材している。ちょっとIT業界に関する知識を得た。
昨日、1人のイギリス人を取材した。マイクロソフト中華地区の副総裁、中国語名は「柏尚杰」と呼ぶ。北京で働いて、ただ中国語を言うことができなく、単に中国語を使ってタバコ名が言えるようだ。アジアと中国が好きだと言った。私は英語を言うことができなく、やむ終えずに翻訳を頼って、マイクロソフトの部門経理及び中国あるIT企業の副総裁は翻訳してくださった。取材する中私は英国式のユーモアを体得した。わず英語単語を捕らえることができた。
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by koubuni | 2006-02-28 17:20
 2002年底,偶然看到一张招贴广告,便应征了《中央公论〉学生记者……

 一九四五年の真夏のある日。場所は中国福建省福州市の林浦という村。幼い少女が家で兄といっしょに遊んでいると、突然、外で「日本人が来た!」と叫ぶ声がした。ふたりは慌てて観音菩薩の石像が置いてある大きなテーブルのうしろに身を隠した。そこへ重い足取りが入ってくる。少女がテーブルの陰からそっと首をのばすと、ブーツを履いたふたりの日本軍兵士の姿があった。かれらは部屋を見回したあと、観音菩薩像の前で両手を合わせ深々と頭を下げた。少女はその敬虔な様子を目にして、初めて人間の心の複雑さを思い知らされた。そして、後年、母となってからは娘の私に何度もこの話を語って聞かせたものだ。
 日中戦争、中国側では抗日戦争と呼ばれる戦争のあいだ、中国人にとって侵略者の日本人はまさに「日本鬼子」だった。その鬼であるはずのふたりの兵士は、戦争が終わる直前にどんな心の動きがあったのだろう。母の口から聞いた光景を想像しながら、私もその問いを噛みしめずにはいられない。
 私が幼い時分に観た抗日戦争の映画では、日本人は残虐な「鬼」に描かれていて怖かった。それがやがて、一九八〇年代なかごろから日本の音楽やアニメなどの大衆文化が流入してくるにつれて、私もその魅力にすっかりはまっていった。しばらく新聞記者の仕事を経験したあと、三年前に来日して、大学院で国際ジャーナリズム論の勉強を始めた。夢は中国語と日本語の両方を使って取材をし記事が書けるようになること。中国と日本、中国人と日本人のあいだに価値のある架け橋を探していきたいと考えている。
 私の仕事の分野はおもに高齢者や社会福祉の問題だったので、お年寄りと触れあう機会が多かった。私の目から見ると、加齢とは歴史・知恵・経験を積み重ねていくことにほかならない。だから、私はいま日本でもお年寄りたちのもとを訪ねては教えを請う。そのひとつひとつの言葉が心に深く響く。最近、秦野市日中友好協会理事の橋村武司さんから学んだのは、私が知らなかった過去の戦争の一側面だった。

 黄色い大地に刻まれた青春

 初対面のとき、橋村さんが被っていた帽子には「清華大学」の徽章が嵌め込まれていた。一九九五年から九七年までの二年間、中国でもっとも有名な精華大学で、科学技術者フォーラムのメンバーとして精密機械の技術支援にあたっていたそうだ。
 その橋村さんは一九四三年、十歳のときに母と妹とともに満州(現・中国東北部)のハルビンへ渡ってきた。四五年、日本の敗戦後、八千人とも一万人ともいわれる日本人が「留用」された。かれらの多くは鉄道、医療、空軍などに関する専門技術者で、以後八年以上にわたり中国建国の協力者として働くことになる。橋村少年もまた、各地を転々としたのち、一九五〇年、鉄道施設のための八百人に交じって甘粛省東南部の天水という町に送り込まれ困難な日々を過ごした。
 現地の中国人は突如出現した「技術工人」の集団によって初めて日本人と出会った。「鬼」と信じていた子どもたちは、橋村少年に向かって「帽子を取って角を見せて」とせがんだりしたという。一方で、天水鉄路職工子弟中学校に入った橋村少年は、歴史と政治の授業を通じて戦争中の日本軍の悪行を知らされた。また、中国人の級友から、その父親が満州で日本軍から七発の弾丸を浴びて絶命したことを聞かされて、深く胸を痛めたこともあった。「悲しみも喜びも味わった中国は私の人生道場だった」と、橋村さんは少年時代を振り返って述懐する。
 天水と蘭州を結ぶ天蘭線建設のために「留用」された日本人鉄道技術者たちは、二年半を天水で過ごしたのちに帰国する。二十歳になっていた橋村さんもようやく再び日本の地を踏んだ。その後、前記したとおり精密機械の技術者となって二十回ほど日本と中国のあいだを行き来しながら、これまで天水へも三回立ち寄り、かつての恩師や級友と往時を語りあったという。
 一九九九年、橋村さんを始めとする「天水会」の寄付金によって、天水に千本の桜の苗が植えられた。黄色い大地に並び立つ桜の木々は、そこに青春を刻んだかれら日本人留用者たちの温かい記憶の延長なのである。私は想像の翼を広げないではいられない。中国西部の天水。はるかシルクロードへとつながる神秘の土地。黄砂満天の原野に夕霞の光が照らしだすひと筋の鉄道軌道を、日本人と中国人がいっしょに力を合わせて施設している光景を。

 中国語、日本語どちらも心の橋

 東海大学の湘南キャンパスから歩いて五分ほどの場所に秦野市大根公民館がある。そこで毎週日曜日に開催される中国語同好会で、橋村さんは現在、十数人のお年寄りとともに中国語を勉強している。私は何度も足を運んで、若い中国人女性の講師を前に、かれらが真剣に中国語に取り組む姿を見た。あるときは中国語で自己紹介の練習をしていた。たどたどしいにもかかわらず、日本人の口から中国語による挨拶を聞いて私は感銘を受けた。
 かれらは中国の悠久の歴史と文化に愛着を抱き、おりにふれて万里長城、四川省の九寨溝、安徽省の黄山、雲南省の大理、広西省の桂林……と各地の名所旧跡を旅しては、現地の人々との交流を楽しんでいる。「万里長城の階段で支えてもらって中国人の親切さを感じた」と微笑むおばあさん、「野生のパンダの写真を撮った」と自慢するおじいさんなど、教室ではにぎやかな体験談が披露される。
 私は自分の故郷、福建省のお年寄りたちを思い出した。実家のすぐ近くに福建老年大学がある。退職した年配の人々が集まって勉強している場所だ。三年前からこの大学では日本語専攻を設け、毎年二十数人ほどのお年寄りが入学して本格的に日本語と日本文化を勉強するようになった。もとより、中国の高齢者たちが日本について学ぶのには心理的な壁がある。かれらの脳裏には、半世紀以上前の抗日戦争の悲惨さの記憶が深く刻み込まれているのだから。しかし、その分厚い壁を乗り越えて、かれらはいま日本と日本人を再認識する勇気をもち始めている。
 先日、そこの年配の友人に電話をかけて、日本でもお年寄りが懸命に中国語を学んでいることを伝えると、相手は少々驚いた様子で「会いたいね。日本語と中国語で交流してみようじゃないか」と応じた。中国と日本のふつうのお年寄りたちが歴史的・心理的な隔たりを超えて、たがいの国語で語らいあう日も遠くないだろう。私はその場面にぜひ立ち会ってみたいといまから胸を躍らせている。

 二度と「鬼」が現れないように

 正直言って、私はここには来たくなかった。靖国神社。雨に打たれながら見上げた巨大な鳥居のまわりでは鳩が飛び交っている。歴史の薄暗い街角に立ったような感じがした。
 境内の一郭にある「遊就館」には、隠しようもない戦争のさまざまな証が展示されている。戦闘機、機銃、山砲、鉄軍帽……など、多くのものにはすでに赤錆が生じていたが、すさまじい硝煙弾雨のなかをくぐり抜けてきたのであろうこれらを目の当たりにして、私は一瞬ぞっとした。戦争とは何だろうか。なぜ多くの無辜の民の命を奪う戦争が文明史とともに存在してきたのだろうか。そして、いまも存在しているのだろうか。最も衝撃的だ
ったのは、この戦争博物館の壁いっぱいに貼り出されていた戦没者たちの写真だ。若々しい青年たちのだれもが無垢な笑顔をこぼしている。
 せめて中国と日本のあいだではもう過去の戦争が繰り返されないように、二度と「鬼」が現れないようにと祈らずにはいられない。そのために少しでも役に立つことを私は記者として書いていきたいと願う。私は待っている。地球村のどこにも「鬼」がいなくなる日を、人間同士の絆がどこまでも深まっていく時代を。
 私は飛行機が成田空港に到着する直前、窓から海岸線を見下ろすたびにその美しさに興奮する。建て前が好きな日本人、辛抱強い日本人、いつも時間に追われている日本人、狭い空間のなかで圧迫されている日本人、ときに子どものような笑顔を見せる日本人……。私がこの目で見てきた日本人は、母が見たものよりもずいぶん多彩だ。
 いつか私が自分の子どもに日本のことを伝えるとき、こうやって物語を始めたい。中国と隣の日本とのあいだにはかつて悲しい戦争があったけれど、それよりもずっと多い愛と平和のストーリーがあるのだ、と。


●取材
杉本奈津子(東海大学文学部三年)
●写真撮影
石川龍(東海大学教養学部四年)
●協力
東海大学
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by koubuni | 2006-02-26 17:39
 在东海大学的时候,有两年的暑假都去了长野县的南相木村。美丽的小山村。

 8月2日から4日まで私は長野県南相木村で信州南相木国際セミナーを参加した。あそこは標高1000メドル以上、特別な美しさと温める人情を感悟して、よく心を打たれて、いろいろな感想がでてきた。最も深い感動されたことは、そんな小さな村にも積極的に国際交流に向かっていこう、村民たちの熱意が本当に永遠に忘れられないと思う。そして、個人的感想だが、その楽しみを伝えてみよう。

               国際化を誇りに
 人口1500人という南相木村は随分小さな村だが、ずっとささやかな国際交流活動を続けている。1988年から信州国際セミナーハウスが東京周辺で学ぶ東海大学を中心とした留学生や地域の国際化に関心を持ち各地の日本人学生・研究者・一般社会人の参加を得て開始された。翌年には、南相木村国際交流友の会が結成され、村民たちが最高の熱意を抱き、心からの歓迎を留学生に捧げ。
 国際化のことというと、村民たちの誇りの顔がよく見える、世界に開かれた村と言われる。南相木村の小学生とオーストラリアの小学生の相互訪問を行ったり、オーストラリアの先生が南相木小学校で英語を教えたりしている。今回セミナーの交流パーティで、日本伝統の氷龍太鼓を演じた、メンバーの一人はオーストラリアからの先生である最も皆に注目された。彼が日本人と同じ民族的服装を着て、正真正銘な動作で太鼓を敲いて、立派な姿を現われた。彼の演技に対して皆は賛嘆して止まなかった。異国の地で暮らしをしているから現地の文化の趣に溶け合うことは素晴らしいでしょう。
 このセミナーは毎年異なるテーマによって、フリートーキングをしよう、文化背景は違う人々がお互いに国際理解を深めよう。今回のセミナー3日で短かったが、皆は交流の本心があるので、収穫は豊富であった。今年のテーマは「国際交流と地域コミュニティー」、個人と地域のつながり、そしてこれからの国際化社会に私たちはどのような意識を持てばよいのかを考えよう。南相木村の多く一般村民と留学生たち一緒に身近なことから国際化社会についていろいろな側面が触れ合った。
               国際結婚からの感想
 一つの国際結婚の物語を取り上げよう。その小さな村で中国の花嫁がいる。夫婦は愛しあうの姿がセミナーの会場で出現していた。日本人の夫と中国人の妻二人結婚するまえに媒酌人によって写真だけで交換して、以前に会ったことがあるようだ気持ちがでてきたから連れ合う。1年前二人結婚したばかり時、言語も通じなかった、お互いに漢字を書いて、苦労するほど交流していた。また夫は中国語を勉強して、妻は日本語を勉強して、愛と共に言語の交流も進んでいる。
 セミナーの会場で夫は生粋な中国語で挨拶した。また国際結婚についての感想を述べた。自分のもつ文化や習慣を越えて、個人と個人が理解しあうことは重要だ。国際結婚だけではなくて、国際人になるため、異文化に対して、異なる文化背景の相手と対面する時、寛容な態度が持つべきだ、軽く見ると蔑視することはいけないと思う。
              男女平等を話しよう
 フリートーキングの時、私は「ジェンダー・ 男女平等」という話題グループに入った。オーストラリア、チェコ、インドネシア、中国など国からの方々が日本と自国の「男女平等」について活躍に意見を発表した。世界中どこでも「男女平等」問題が存在していると感じられた、国際的共同的な問題と見なされている。特に日本の女性地位問題に巡った議論が多かった。ある日本人男性の方は「日本人夫婦は平均毎日話し合う時間5分しかない」と発言した、本当に意外なことだ。私の考えは、「嫁ぐのは男、家庭を守るのは女」という生き方はよくないとは言えない、しかし、男女が共に輝くために、女性の自信がもっと増加するべきだ。男女のパートナーシップという観念の確立については、女性自身の努力も大切だろう。家庭主婦になっても、新たな世界と接する勇気がいつまでも保持しよう。たまに夫に「皿を洗ってください」言ってもよい、女性が働いてもいなくても、個人としての尊厳が重視されることが必要だと思う。残念ながら日本のテレビドラマ中で、女性地位が低いことはよく感じられる、女性の方は性格怪しいあるいは軟弱的な印象が多く残っている。
 いろいろな議論によって、日本人家庭と男女平等に関する事の認識が増えそうだった。
           84歳長者との特別な交流
 体験交流会の中で南相木村ある84歳の長者が私たち留学生に藁細工づくりを教えてくれた。長者は根気が強そうだ、一人一人に作り方を詳しく説明してあげた。彼は特別な経歴を持つ人だが、60年前に彼が二年半間で中国にいった、戦争に巻き込まれた。1時間ぐらい私は書きながらその老人と交流した。かつて60年前の戦争について私とある日本人の見方が違ったので、言葉で衝突したこともある。今回初めで戦争の関係者と対面して、正直に言えば、最初には複雑な気持ちがあった。
 戦争の残酷さが記憶の中に残ったかもしれないが、老人は世間話で思い出話を説いた。彼は中国で自分が行った場所をはっきり覚えている。中国の食べ物についての思い出が多かった。彼は中国語で「父親・母親・子供」また数1、2、3、4・・・と言った。戦争が終わったから、老人はずっと中国へいかなかった、「失礼ことがしただから・・・」これは彼の解釈である。でも現在老人の子は中国語ができて、また娘は中国留学生の友達がいる、若者は年長者より幸いでしょう。10年前から、老人は健康草履を作りことを始めた、毎日8足ぐらい作って、全部回りの人にあげている。「久しぶりに60年前のことをしゃべり・・・」最後に長者は感嘆してしまった。その時、私は美空ひばりの歌「一本の鉛筆」を思い出した、「一本の鉛筆があれば、戦争はいやだと私は書く」。平和の鐘を鳴らすのが世の中すみからすみまで聞こえるだろうか。セミナーが終わるまえに、その長者は中国留学生に自分の手で作ったミニ草履をあげた。

 この文章を書いたところ、私のホストファミリのお母さん、お父さんからのメールを受け取った、「これからも身体、心が疲れた時、私の家に来て下さい・・・」あたかも両親からの思いやり、とても心暖まるものと感じた。時間に追われて生活している現代人には、心の交流が珍しいでしょう。このセミナーでさまざまな文化・生活習慣が勘違い人々を集まり、皆は心を開かれて、国際交流の橋を架け、異文化と触れ合う元気が増した。もしも日本の3300ぐらいの村や町や市が南相木村の人々のような心暖まり元気が出る実験をはじめたのなら、きっと日本自身にも日本と世界との関係にも急速で大きな変化をもたすことでしょう。



再び感動した

 今年の1月、私が書いた「小さな村での国際交流」という記事が「東海大学新聞」1月20日号に掲載された。その記事で私は、長野県南相木村という小さな村が「信州南相木国際セミナ―」を十数年間連続して開催しており、毎年留学生を招いて国際交流に取り組んでいる姿を紹介した。今年の夏、私は再び心の故郷―個性豊かな南相木村を訪れた。
 今年のセミナ―に参加した留学生16名の出身は6カ国・3大学にわたり、そのうち東海大学から参加した留学生9名の出身国は、中国、韓国、イラン、モンゴル、ミャンマー等であった。留学生たちと南相木村の人々は、家事や子育てにおける男女の役割、日本の若者のワークスタイルとライフスタイル、異文化理解、村の食文化と世界の食文化等、さまざまなテーマについて精力的な意見交換を行った。日本食の作り方に興味があった私は、今回は「食文化」というセッションに参加した。村のお母さんたちは餅・漬物・豆腐などの伝統的な作り方を教えてくれた。最も感銘を受けたのは、村の女性たちが主婦の仕事をしながら積極的に社会活動に参加していることだった。「やりたいことをちゃんとやって人生豊かになろう。」65歳の主婦中島美智子さんは昨年村で初の女性農業委員となり、男女平等・女性の社会進出を熱心に唱えている。
 私は村の人々と再会して旧友のように話し合った。多くの人が1月20日付の「東海大学新聞」を持っており、記事についての感想を私に語った。皆は「初めて南相木村の国際セミナ―を報道したのは東海大学新聞だ」と言った。昨年出会った一組の国際結婚の夫婦は、今年も幸せそうな姿を見せてくれた。中国人の妻は生後2ヶ月の赤ちゃんを抱いて、一年前よりもずいぶん上手になった日本語で「我が村のこと」を誇らしく語った。日本人の夫は「文化と習慣の違いを超えて、お互いが理解し合う」ことの大切さについて語った。昨年私は村の長老である85歳の中島至静さんに藁細工づくりを学んだので、今回藁で草履を編み、自分の「技」が進歩したと自慢しながら、日本の伝統芸術の面白さを再び体験した。中国での戦争体験を持つ中島さんほか村の長老たちは、平和について留学生たちと話し合った。南相木村の入り口に「不戦の像」という彫像がある。当時、戦場へ行く夫を見送る妻はその場所で夫と別れたという。今でも村の人々は「不戦の像」の前で平和を祈っている。
 交流パーティーで留学生たちが出身国の国歌を紹介し、さまざまな言語の歌声が村の上空に響いた。。小さな村が持っているとても広い心を感じながら、私は思わず「南相木村が大好き」と言った。私のホストファミリーのお母さんは、「日本には素晴らしいところがたくさんありますよ。どこでも行ってみよう。新鮮な体験を得られるかもしれませんよ。」と助言してくれた。15年連続で南相木セミナ―に参加している「酪農学園大学」の森川純先生が、留学生へのはなむけの言葉としてアフリカの諺を紹介してくれた―「山と山は出会わないが、人と人は出会う」。
 私は再び感動した。
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by koubuni | 2006-02-26 12:03

「外」から「内」に迎え

                       (一)
 大学お休みの時中国へ帰り。テレビ番組で面白い発見があった。ある日、中国中央テレビ有名な「実話実説」というフリートーキング番組で、色々な国からの外国人ゲストが登場した。中国の悠久歴史と文化に愛着を持っている、あるいは現在沸騰している中国の市場経済を狙い、ビジネス利益のためというきっかけで中国へ行こうとした大勢なのだ。ある外国人が「中国で暮らしをして、生活の中に一番嫌なことは何ですか」と質問された時、「老外と呼ばれた時嫌だ」ときっぱり切り出した。
 私は少々驚いた。原因は二つである。
 まず、「老外」という言葉は中国人が外国人に対して民間的呼び方。なぜ外国人は「老外」になっては嫌なのでしょうか。70年代後半中国改革開放を始めた時に「老外」という言葉が生まれた。その時経済力が低かった中国人には「老外」に羨ましい気持ちがたっぷり持っていた。
 もう一つ、異国で暮らしをする人々の気持ちが真似なのである。日本では外国人は「外人」と呼ばれたとき、不機嫌な顔が現われる場合も少なくない。
 やはり心の問題だ。世界中人々は肌の色、言葉、習慣などが違っても、「内」から「外」に外された時、皆は当然的に反応するのは―「ノー」・・・
 但し、冷静的に分析すると、「外」になるのは客観的事実だろう。例えば、現在私は留学生として日本にいる、日本人と違って「外国人登録証明証」を持ち、ビザの申請と更新などが必要。「外人」と呼ばれたことは一回しかない。ある日、お婆さんと話し合い、私は好きな日本料理を数え、「刺身・納豆・梅干・味噌汁」・・・相手は驚いていた顔とともに「あなたは外人なのに、食べ物って日本人より日本人らしいね」という話が出た。その時、私は微笑した。「外人」と言われたのに、相手は決して悪意がないと十分わかっていたからだ。
 もはや地球村がだんだんなってくる時代だ。我々は外国人として異国で暮らしの機会が大きくなっている。「老外」であれ「外人」であれ言葉だけの問題に理解しよう。平常心を保つ、従容たる態度で現地の人々と接触するはずだ。ある日本のテレビ番組の中でお父さんがインドに嫁いだ娘に「君今夫と一緒にインドで暮らして、日本人女性ということを忘れて、インドの女性の一員として覚えてほしい」とアドバイスした、とても開明的なお父さんが異国での生活上の秘訣を娘に教えてあげた。
                          (二)
 一方、我々は外国人と対面し、注意せざるをえないのは何だろう。
 中国で私の家の近くあるアメリカ女性が住んでいる。彼女の夫は中国の大学の先生。近所の人たちが全然彼女を「外の人」と思わなかった。毎日そのアメリカ女性と中国の主婦達一緒に買い物したり大声で喋ったりする。皆が彼女の肌の色が違うこと全く覚えてない。「老外」を「内の人」として迎えるはずだ。
 ところで、もう一つもっと強調したいことは、無意的な心の傷害を避けるように気にかけてほしい。
 ある東海大学の教授がある中国の日本語学校を訪問した時、中国の男性からたばこを投げてくれた。その瞬間、先生は心の中で「私は犬じゃないよ、相手何で投げるそんな動作で…」と気持ち悪くなりそうだった。実は中国の男性の間とくに友達の間にたばこを投げてあげるのは普通のだ。これも中国の男性と日本の男性が相違の一つ。前者は豪気を示しているのだが、後者は礼儀を大切にするのだ。その中国の男性には悪意ありそうでもない、しかし、外国からの貴賓に対してたばこを投げるという物腰で失礼と判明した十分である。相手の習慣を尊重してあげることを忘れないで。
 一つの比喩を思い出した。例えば姑嫁関係、よく矛盾がある関係。花嫁は新たな環境即ち夫の家に入って、一番の難点は姑への対応。もし姑は厳格な人だったら、花嫁はびくびくでしょう。一方、姑としてわからざるをえないことは自分の娘より嫁に対してもっと思いやりをあげようとするのは必要だろう。自分は娘に厳しい話しを言っても、娘がぜんぜん気にしないが、嫁をさせると、嫁は気になるかもしれない。初めて外国で暮らしをしている人々の気持ちはあたかも大家庭の新婚の花嫁だ。だから外国人に対して皆がやさしい「姑」になろう。
                          (三)
 とはいえ、「外」から「内」に迎え、簡単なことではない。努力すべきところは多いと思う。
人々の頭の中にステレオタイプの潜在意識また古い観念が強固に存在しているからだ。私は度々相手に「故郷は中国の福建省」と教えていた時、相手はまず「えぇ、ウロンチャの故郷、いいところね」と表明し、またはがゆい言い方で「でも、福建省の人は悪いことやってたんみたいか」、私は苦笑した。日本に着たばかり時、日本に10年間以上住んでいる親戚は「アルバイトを応募する時、自分の出身言わないほうがいい」と教えてくれ、そんな助言に対して私はよく理解できなかった。
 中国へ帰って、一番質問されていた問題は「日本人は外国人に対して疎外ですか」、それは多分中国人が日本人についてのステレオタイプの一つである。私の答えは「今まで私が知り合い人限りやはりやさしい人が多いが、日本人の性格と日本語の性格大体同じ。意味をわざわざ婉曲して表現する・・・」ある友達は数年前日本またアメリカに留学した経験ある、彼が「外国人にはアメリカで社会の交際に溶け入れることは日本より実現しやすい」と述べた。実際にはどうだろうか。心から国際化に向かう日本人はどんどん増しているでしょう。
 「差別の壁」になってはいけないが、残念ながらマス・メディアからの情報はときとき「疎外的な事件」を強調して映し出す。かつて北海道のある観光都市のある温泉が「外国人お断り」。それと同じように、昨年の夏、中国の南方都市深圳のあるバーが、入り口に「日本人は入るべからず」との看板を掲げ…私は同胞のそんな行為に忍びなさを感じた。
 人間はどうして古い観念を投げ捨てられないだろうか。
 戦争の硝煙が中東の空一面にみなぎっている不安定な世界中に身を置くと感じている21世紀の最初に、「NO WAR」を呼びかけながら、「老外」であれ「外人」であれ、「外」から「内」の人として温かく迎え入れるように、親愛の情を創りましょう。「老外」・「外人」に優しい町、優しい私、それだけ我々庶民たちのちからでできる事、それでは平和空間づくりの道への一つだろうか。
 
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by koubuni | 2006-02-26 11:53
 这也是两年前的旧作。
 二年前の作文です。

 最近、中国と日本のマス・メディアに、同じ内容のニュースが掲載された。
 中国陝西省西安市にある西北大学は、10月10日、中国唐時代(618~907年)に日本から中国に渡った1人の遣唐留学生が客死したことを記す墓誌を同市内で発見したと発表した。この留学生は奈良時代、阿部仲麻呂らとともに遣唐使の一員として中国に渡ったと見られる。中国で当時の日本人の墓誌が発見されたのは初めてである。墓誌は、ほとんど知られていない遣唐留学生の実態を伝えており、日中交流史の新たな側面を浮き彫りにする貴重な発見と言える。
 墓誌は西北大学博物館の収蔵品の中にあった。一部の文字は判読できないが、「姓は井、あざな(名)は真成。国号日本」とはっきり読み取れ、開元二二(七三四)年正月に三十六歳で死去したとある。礼儀正しさは比類なく、たゆまず勉学に励んだ努力家であったと称えられている。ときの玄宗皇帝は、英才の早世を悼み「尚衣奉御(皇帝の衣を管理する官位)を贈った」とも記されている。
 私はこの日中友好史話を読んだ後、ちょうど一年前に起きた、西北大学での日本人留学生寸劇事件を思い出した。
 昨年の秋、西北大学で開かれた文化祭で、日本人の男子留学生3人と教師1人が寸劇に出演した。寸劇の内容が中国を侮辱するものだと受け取られたため、翌日朝から中国人学生が留学生に謝罪を求めて抗議活動を開始した。留学生が「これが中国人だ」と書いた札を下げていた、という香港紙の誤報もあって、「中国を侮辱した」という不満が学生たちの間に急速に広がり、間もなく数千人の学生デモが発生し、激しい反日事件に発展していった。
 唐時代と現代の日本人留学生は雲泥の差だ。唐時代の日本人留学生については、彼が中国の伝統と文化を尊重し、懸命に勉強する姿が想像できる。彼は中国皇帝に褒められたというが、それとは正反対に、21世紀初めに中国西安に留学していた数人の日本人留学生が中国から追い出されてしまったことは本当に残念だ。彼らは中国と中国文化をよく理解していなかったのではないだろうか。異文化理解と交流は異なる民族同士が心を通わせるための最もよい方法なのだ。
 もし遣唐留学生墓誌がもう1年早く、即ち西北大学での反日事件前に発見されていれば状況は違っていたのではないか。あの寸劇を演じた日本人留学生たちは先人の業績を見て、どのように中国の文化を学び、民族の習慣を尊重すべきかが分かったのではないか。一方、中国の「反日大学生たち」も日本からの遣唐留学生墓誌に教わることがあっただろう。中国で学んでいる日本人留学生に対して、決して「帰れ」と言ってはいけない。それは中国の大学生の「恥」なのだ。この事件が起きた当時、私は東海大学の大学院生だったが、西安反日事件の直後、数人の東海大学の学生は、西安へ行き、真実を確かめたいと私に言った。その時、彼らと一緒に西安へ行こうと考えたが、安全のことを考えて結局行けなかった。複雑な気持ちだった。
 中国唐朝の貞観年間から、日本から中国へ「遣唐使」が派遣されていた。回数は13回という。唐朝時代の開放的な気風は今なお世間の人に語り伝えられている。先人はよく八方からの来客を心から温かく迎え、優遇した。そのことによって、唐朝時の中国は、当時、世界中で一番隆盛な国とみなされていた。西安の大学生たちは先人の行為に学ぶことが多いはずだ。そして現在の中国は昔の中国に学ぶべきことがたくさんあるだろう。
 昨年、悲しみを抱きながら西安を離れた日本人留学生に話したいことがある。―「今後、機会があったら、是非再び西安を訪れてください。そこに、あなた達の祖先の足跡を探して、遣唐留学生墓誌を仰げば、新たな想いが得られるでしょう。あなた達にとって西安の記憶は恐ろしいものだと思いますが、西安は怖い都市ではありません。もう一度西安をじっくりと味わうと、あなた達は祖先と同じ結論を得るかも知れません。西安は文化の味を満たし、親切に遠方の来客を抱擁する美しい都市なのです。」と。
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by koubuni | 2006-02-26 11:47

愛のかたち 

 想当年很有小资情调,在大学校园里,与那些少男少女同伍,我常常有年龄错位的感觉,以为自己还青春年少,以为还有一场轰轰烈烈的恋爱等着自己……有梦总比无梦好吧。


 愛のかたちが見えないものでしょう、ただ感じられ、味わえ。
 初めて「日本では恋人はいっしょに食事をした後、別々に自分の分だけで支払い」ということを聞かれたとき、 本当に吃驚した。中国で恋人の食事は、一人で支払うのが普通である。「もし二人は別々にしったら、変な感じじゃないか?」これはある中国の女の子の見方だった。レストランで自分が財布を持ち支払いにいく、それは恋愛中の中国男性の紳士的姿だね。
 私は好奇心が強いので、それは日中の異なる愛の「かたち」についてある日本の女の子に問いかけた。彼女はとても真剣な思考した後、「大学生の場合は、自分も、相手も、お金がたっぷりあるとは言えない。自腹でいいじゃない?働いていても恋人の間に財政は別々とする。それ男女平等じゃない?」と答えた、この解釈はとても賢いと思う。感情問題と経済問題どちらも留意しなければならない。愛はいくら深くても、夢を追うだけではなくて、現実と直面することも忘れないようして欲しい、だから、重荷を分担するように財布も平等しよう。ここから見ると、日本の恋人同士は中国より理知的なのだ。
 もう一つ「愛の形」に関する物語を取り上げよう。ある中国の女性が10年前日本人と結婚した。彼女がラブストーリーを取材していた私に自分のことを教えてくれた。「夫は典型的な男性中心の物の考え方を持っている人。夫婦一緒に出かけた時夫何時も私の前に大きい足取りで歩き、二人の間にずっと二三歩の距離があって・・・そういう小さなことに気が付いたのは可笑しいかも、でも自分本当の気持ちは夫婦が肩を並べて歩いて欲しい・・・」それで、ロマンチックな彼女は夫に中国の古典的な愛情詩をあげて、解釈もしてあげた:「執子之手、与子偕老」というのは、「君と手をつなぎ、老いるまで連れそう」である。しかし、「夫は相変わらずにひたすら一人で前へ行こうとする・・・」愛情詩の効果はなかったのだろうか。やっと「ある日、夫婦が大通りを横切るとき、周りは人の群れでいっぱいだった。その時、夫が突然に私の腕を取って、急いで人混みの中に割り込んだ・・・」勿論、彼女はその瞬間かつてないほど感激した。肝心な時、愛されていることをはっきり感じれば人生の最高でしょう。そして、彼女は自分が希望していた「肩を並べ、手をつなぎ」など「愛の形」がなくても「愛の内容」を確認したので、安心できたのです。
 異なる教養・言語・宗教・生活様式と人々の性格によって、「愛の形」は色々で表現とも様々であろう。例えば、感情を表すことに関して欧米の人はアジアの人より熱烈なようだ。日本と中国は近くても、また微妙な差異が存在している。「愛の形」ということから文化的心理的民族的異なるも見ることができる。
 昔は離れている恋人の間に手紙しかないで愛情を伝えていた。その後、電話が発明されて連絡が便利になった。現在の携帯電話写メールの誕生は恋人にとってはもっと役に立ちそうだ。しかし「インターネット愛情」に対して、私は疑いを抱き続けている。二人はお互いに顔にも知らずにインターネットで恋を語る、そういう形の「愛」は真実だろうか。伝播技術と連絡手段がいくら進歩しても、感情に関することはあくまでも対面直接的コミュニケーションが大切なのである。
 映画「タイタニック」が描いた世の中をびっくりさせるような愛のストーリーはとても感動なのだが、われわれ平凡な人間は、平凡な愛を追求している。「愛の形」はやはり自然的質素なものが最も美しいでしょう。
 最後に一つ、強く印象を残っているかつて目にした光景を描いてみよう。秋、黄昏の公園の一隅、夕霞の光が大地を柔らかく照らし、すっかり銀杏も黄金色に染まり落ち葉の絨毯が敷き詰められていた。一組髪が白くなった老夫婦が手を繋ぎ、ゆっくり散策しながら、囁いたりして、愉快な笑い声が聞こえてきた。
 その風景が、本当に、私たち見る者の心の琴線に触れた、何か豊かなものにしてくれたようだった。
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by koubuni | 2006-02-26 11:32
听说这个地方可以中、日文并用,先发一篇两年前的旧作试试看。
とりあえず、日本語と中国語を混ぜてみましょう。2年前の作文です。


 日本での暮らしも5年目となり、今年の5月には神奈川県日中友好平和会の会員となった。日中友好のために尽力されている人々の姿に私は深い感銘を受けている。
 今、私は「日中友好は難しいことなのか」という問題をさまざまな機会に考えているのだが、正直なところ、最近、ある報道に接してから「日中友好は難しい」と感じることが多くなった。
 仕事のため、私は毎日インターネットで日中関係に関するいろいろなニュースを見ている。中国マス・メディアの報道だけではなく、日本マス・メディアの報道にも目を通している。様々な出来事についての両者の立場を比較することによって自分なりの視点を形成し、それを記事の執筆にも生かすことは楽しみでもある。しかし、日本マス・メディアのある記事を読んで、私は不安を感じるようになった。
 7月27日、「産経新聞」に次のニュースが掲載されていた:

 中国・重慶市などで開かれているサッカー・アジア杯が極めて偏狭な中国の「愛国主義」に彩られている。日本対オマーン、日本対タイ戦では日本選手に対する激しいブーイングが会場を覆ったほか、24日には試合終了後に日本チームのバスが中国人観客に取り囲まれた。
20日の日本対オマーン戦での中国人の観客の声援は大部分がオマーンに寄せられ、一部の観客は反日スローガンまで叫んだ。24日の日本対タイ戦でも日本選手への露骨なブーイングが終始目立った。
 タイ戦では観客席の日本人に物が投げつけられたほか、日本選手のバスが中国人観客らに取り囲まれる騒ぎもあったという。
 現在もネットの掲示板には「重慶人民は日本選手団に抵抗せよ、爆撃を忘れるな」、「日本選手団に歴史の写真を見せて勉強させろ」などの書き込みが存在する。
 歴史問題だけでなく尖閣諸島や沖ノ鳥島、ガス田開発など最近の東シナ海・西太平洋における日中間の紛争についても、日本選手団に対して抗議行動を起こそうとする動きもみられたという。

 この事件は中国マス・メディアでは報道されていなかった。私は「中国人はどうして日本に対する複雑な感情を持ち続け、それを憎しみへと転化させていくのだろうか」、「日本人と中国人が互いに理解することは難しいのだろうか」と自問してみた。 スポーツは、政治や歴史の問題とは分けて考えるべきである。政治はスポーツに影響を及ぼさないでほしい。中国・重慶市の人々がスポーツ観戦で偏狭な「愛国主義」を示したことは本当に残念だと思う。遠くから来た客人である日本選手及び日本人観客に対して物を投げつけたりすることは本当に恥ずかしいことだ。ナショナリズムを悪用してスポーツの試合相手を「敵」扱いすることは止めるべきである。
 一方、私は昨年放送されたある中国マス・メディアのスポーツ中継を思い出した。昨年、日本で開かれた女子バレーボール世界大会の日本VS中国の決勝では、中国チームが勝利を収めたのだが、フジテレビによる生中継では、優勝した時の中国選手たちの笑顔をまったく映していなかった。画面には日本選手のがっかりした様子ばかりが映し出されていた。中国のテレビチャンネルはフジテレビの生中継番組をそのまま流しており(女子バレーボール世界大会の決勝戦なので世界各国に中継されていた)、中国テレビ局のスポーツ解説者は「日本人は何故そんなに心が狭いのでしょうか。自国の選手だけしか映さないなんて…。2008年北京オリンピックの時には、われわれは絶対に一番美しいシーンを世界中の人々に届けるつもりだ」とコメントしていた。この放送をきっかけとして、多くの中国マス・メディアがフジテレビ及び日本マス・メディアを強く非難するようになった。しかし、この件については日本のマス・メディアは何もコメントを出さなかった。
 これはまさにスポーツから発生した両国マス・メディア間の「戦争」だ。そしてスポーツだけではなく、政治・経済領域でも日中マス・メディア間の硝煙弾雨がよく見えるようになってきた。でも、私の周りで、しばしば日中友好の物語が発見されるのも事実である。
 私は自分の筆で日中友好をアピールし、日中関係の新鮮な実像を描くことで、日中メディア間の「戦争」の蔓延を防ぎたいと願っている。
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by koubuni | 2006-02-25 13:13