人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日中報道


by koubuni
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「外」から「内」に迎え

                       (一)
 大学お休みの時中国へ帰り。テレビ番組で面白い発見があった。ある日、中国中央テレビ有名な「実話実説」というフリートーキング番組で、色々な国からの外国人ゲストが登場した。中国の悠久歴史と文化に愛着を持っている、あるいは現在沸騰している中国の市場経済を狙い、ビジネス利益のためというきっかけで中国へ行こうとした大勢なのだ。ある外国人が「中国で暮らしをして、生活の中に一番嫌なことは何ですか」と質問された時、「老外と呼ばれた時嫌だ」ときっぱり切り出した。
 私は少々驚いた。原因は二つである。
 まず、「老外」という言葉は中国人が外国人に対して民間的呼び方。なぜ外国人は「老外」になっては嫌なのでしょうか。70年代後半中国改革開放を始めた時に「老外」という言葉が生まれた。その時経済力が低かった中国人には「老外」に羨ましい気持ちがたっぷり持っていた。
 もう一つ、異国で暮らしをする人々の気持ちが真似なのである。日本では外国人は「外人」と呼ばれたとき、不機嫌な顔が現われる場合も少なくない。
 やはり心の問題だ。世界中人々は肌の色、言葉、習慣などが違っても、「内」から「外」に外された時、皆は当然的に反応するのは―「ノー」・・・
 但し、冷静的に分析すると、「外」になるのは客観的事実だろう。例えば、現在私は留学生として日本にいる、日本人と違って「外国人登録証明証」を持ち、ビザの申請と更新などが必要。「外人」と呼ばれたことは一回しかない。ある日、お婆さんと話し合い、私は好きな日本料理を数え、「刺身・納豆・梅干・味噌汁」・・・相手は驚いていた顔とともに「あなたは外人なのに、食べ物って日本人より日本人らしいね」という話が出た。その時、私は微笑した。「外人」と言われたのに、相手は決して悪意がないと十分わかっていたからだ。
 もはや地球村がだんだんなってくる時代だ。我々は外国人として異国で暮らしの機会が大きくなっている。「老外」であれ「外人」であれ言葉だけの問題に理解しよう。平常心を保つ、従容たる態度で現地の人々と接触するはずだ。ある日本のテレビ番組の中でお父さんがインドに嫁いだ娘に「君今夫と一緒にインドで暮らして、日本人女性ということを忘れて、インドの女性の一員として覚えてほしい」とアドバイスした、とても開明的なお父さんが異国での生活上の秘訣を娘に教えてあげた。
                          (二)
 一方、我々は外国人と対面し、注意せざるをえないのは何だろう。
 中国で私の家の近くあるアメリカ女性が住んでいる。彼女の夫は中国の大学の先生。近所の人たちが全然彼女を「外の人」と思わなかった。毎日そのアメリカ女性と中国の主婦達一緒に買い物したり大声で喋ったりする。皆が彼女の肌の色が違うこと全く覚えてない。「老外」を「内の人」として迎えるはずだ。
 ところで、もう一つもっと強調したいことは、無意的な心の傷害を避けるように気にかけてほしい。
 ある東海大学の教授がある中国の日本語学校を訪問した時、中国の男性からたばこを投げてくれた。その瞬間、先生は心の中で「私は犬じゃないよ、相手何で投げるそんな動作で…」と気持ち悪くなりそうだった。実は中国の男性の間とくに友達の間にたばこを投げてあげるのは普通のだ。これも中国の男性と日本の男性が相違の一つ。前者は豪気を示しているのだが、後者は礼儀を大切にするのだ。その中国の男性には悪意ありそうでもない、しかし、外国からの貴賓に対してたばこを投げるという物腰で失礼と判明した十分である。相手の習慣を尊重してあげることを忘れないで。
 一つの比喩を思い出した。例えば姑嫁関係、よく矛盾がある関係。花嫁は新たな環境即ち夫の家に入って、一番の難点は姑への対応。もし姑は厳格な人だったら、花嫁はびくびくでしょう。一方、姑としてわからざるをえないことは自分の娘より嫁に対してもっと思いやりをあげようとするのは必要だろう。自分は娘に厳しい話しを言っても、娘がぜんぜん気にしないが、嫁をさせると、嫁は気になるかもしれない。初めて外国で暮らしをしている人々の気持ちはあたかも大家庭の新婚の花嫁だ。だから外国人に対して皆がやさしい「姑」になろう。
                          (三)
 とはいえ、「外」から「内」に迎え、簡単なことではない。努力すべきところは多いと思う。
人々の頭の中にステレオタイプの潜在意識また古い観念が強固に存在しているからだ。私は度々相手に「故郷は中国の福建省」と教えていた時、相手はまず「えぇ、ウロンチャの故郷、いいところね」と表明し、またはがゆい言い方で「でも、福建省の人は悪いことやってたんみたいか」、私は苦笑した。日本に着たばかり時、日本に10年間以上住んでいる親戚は「アルバイトを応募する時、自分の出身言わないほうがいい」と教えてくれ、そんな助言に対して私はよく理解できなかった。
 中国へ帰って、一番質問されていた問題は「日本人は外国人に対して疎外ですか」、それは多分中国人が日本人についてのステレオタイプの一つである。私の答えは「今まで私が知り合い人限りやはりやさしい人が多いが、日本人の性格と日本語の性格大体同じ。意味をわざわざ婉曲して表現する・・・」ある友達は数年前日本またアメリカに留学した経験ある、彼が「外国人にはアメリカで社会の交際に溶け入れることは日本より実現しやすい」と述べた。実際にはどうだろうか。心から国際化に向かう日本人はどんどん増しているでしょう。
 「差別の壁」になってはいけないが、残念ながらマス・メディアからの情報はときとき「疎外的な事件」を強調して映し出す。かつて北海道のある観光都市のある温泉が「外国人お断り」。それと同じように、昨年の夏、中国の南方都市深圳のあるバーが、入り口に「日本人は入るべからず」との看板を掲げ…私は同胞のそんな行為に忍びなさを感じた。
 人間はどうして古い観念を投げ捨てられないだろうか。
 戦争の硝煙が中東の空一面にみなぎっている不安定な世界中に身を置くと感じている21世紀の最初に、「NO WAR」を呼びかけながら、「老外」であれ「外人」であれ、「外」から「内」の人として温かく迎え入れるように、親愛の情を創りましょう。「老外」・「外人」に優しい町、優しい私、それだけ我々庶民たちのちからでできる事、それでは平和空間づくりの道への一つだろうか。
 
by koubuni | 2006-02-26 11:53